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敗戦直後に見たアメリカ女性の華やかさが「僕のルーツ」です

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メイクアップアーティストの頂点に今もなお君臨するトニータナカ氏のインタビューを、2010年の本誌より抜粋してお届けします。トニー氏が美容業界に入るまでの経緯を追うとともに、これまでに歩んできた美容人生を振り返る貴重なインタビューです。

 

 

敗戦後の日本でメイクアップアーティストを志した


 

花上 トニーさんは40年以上という長い美容業界でのご経歴のなかでも、とくにハリウッド映画でのご活躍で、日本でその名を轟かせました。そもそも、どのようなきっかけで美容業界に足を踏み入れられたのでしょうか。

 

トニー 僕は終戦直後の1948 年に経堂で生まれました。大きな豪農がありまして、一家はそこの片隅を借りて暮らしていました。周囲は見渡す限りの畑と野原がつづき、僕はそこをターザンのように駆け回っていた野性的な子どもでした。その当時の日本女性の格好と言えば、もんぺか着物に、ひっつめ髪。敗戦後の日本は、そのように素朴で質素な暮らしが根付いていました。

あるとき、在日米軍の将校クラブで通訳をしていた叔父に連れられ米軍立川基地に遊びに行きました。ご存知のように、在日米軍基地の地籍は米国にあって、基地の中に一歩入ればアメリカの生活文化が広がっています。僕が5歳にしてその立川基地を訪れたとき、当時の日本では考えられない光景を目にして、とてつもない衝撃を受けました。将校たちは、のちに日本で一大ブームを起こすVANジャケットなどのアイビールックファッションを着こなして、ハンバーガーやローストビーフを食べていました。僕は、生まれて初めてコカ・コーラを飲みました。敗戦国である日本の景色とは180度対局的な、アメリカの豊かさと繁栄に満ちた光景が広がっていたのです。

 

花上 敗戦直後の日本と比べると、さぞ華やかな世界だったのでしょうね。

 

トニー それはそれは華やかでした。立川基地の中には、将校クラブの婦人たちが通う「ヘレン」という美容室がありました。そこにはレブロンのメイクアップアーティストがいて、メイクをしたり、ヘアセットをしたり、ネイルをしたりしていました。婦人たちはゆるやかなウェーブのかかったブロンドヘアに真っ赤な口紅とマニキュア。シャネルスーツのような服をかっちり着込んでいて。そのようなアメリカ人女性の姿は、僕にさらなる衝撃を与えました。その瞬間がきっかけでこの世界に入ろうと決めました。

 

花上 5歳のとき、すでに美容業界に進もう、と決意されたわけですか。

 

トニー そう。5歳でアメリカの文化に触れて、愕然としたとともに「日本の未来はこうなるんだ」と想像しました。僕は子どものころから未来を見る力、俯瞰力が優れていたんです。僕があのときに見た光景は「日本の未来」だった。それが直感的にわかったんです。真っ赤な爪や唇を携えたウェーブヘアの女性たちを見て、数十年後の日本の女性はこうなる、と。だから、僕は美容にとても興味を持ち、どんどんのめりこんでいきました。ちょうど小学校に入ったころには、地元の経堂に「ヒロ美容院」という美容室ができました。僕はそこにずっと入り浸って、お店のお手伝いをしていました。そのうちに、シャンプーの秘技を覚えまして。10歳のときにはすでに、シャンプーの指名客が何十人もいたんですよ。

 

 

10歳から顧客を抱え、その後、ハリウッドデビューまで


花上 10歳で、ですか?! 想像以上に長いご経歴をお持ちなんですね。その頃ですと美容室は一般的なものではなく、ある程度のステータスのある人しか通えなかったのでは?

 

トニー そうですね。「ヒロ美容室」には俳優のご婦人方や、今でいうセレブリティな方々がたくさんいらっしゃっていました。

 

花上 そのような方たちの施術をお手伝いされていたわけですね。幼少期の後もずっと、美容の道に?

 

 

トニー 高校時代は夜間の美容学校に通うと同時に、当時、「夜のヒットスタジオ」などの有名番組を立ち上げた構成作家の塚田 茂さんの家に出入りしていまして。そして日劇や銀巴里に出入りするようになりました。また、そのころのアメリカのテレビや映画にも傾倒していました。もっとも触発されたのは、1939年に公開された『オズの魔法使』。この映画で、チャールズ・シュラムさんというメイクアップアーティストが手がけた、かかしやブリキ男、臆病なライオンなどの特殊メイクは、とても斬新なものでした。そのような出来事が重なって、僕はエンターテインメントの世界に出会っていきました。

 

花上 幼少期から高校時代まで、ディープな経験をされてきたのですね。しかし、そのような環境の中にいたら、俳優や歌手など、表舞台のほうに立ちたくなるのでは?

 

トニー かつては俳優のオーディションへのオファーもありましたが、僕の興味は、もっぱら“裏方”の世界。だから、とことん美容の世界を究めていきました。美容学校を卒業すると同時に、僕は植村秀先生の所に弟子入りを申し出ました。そこから本格的なメイクアップの修業を積み、1969年、21歳のときにワーナーブラザーズの日英米合作映画『マスターマインド』でメイクアップアーティストとしてデビューしました。

 

花上 そこから、たくさんのご功績を残されていくわけですね。

 

トニー その後、本場ハリウッドでビューティメイクとスペシャルメイクを経験。現在の日本のメイクアップ界に大きな影響を与えているウエストモア・ファミリーに師事し、メイクアップメソッドを学びました。帰国後は映画だけでなくTV・雑誌・CF など、さまざまなメディアのメイクを担当。メイクを通じてドラマ創世記を見てきましたし、その頃、全盛期だったバラエティ番組も担当しました。また、いろいろな番組を渡り歩く中で僕自身のキャラクターにも注目されて、テレビの表舞台にも立ちました。お昼の情報番組の司会ですとか、バラエティなど、レギュラーで週4本くらい出演していました。

 

インタビュー後半は、プロとして、日本の美容とこれからを語っていただいた続きはこちら!

 

 

トニータナカ Tony Tanaka
1948年 東京都世田谷区生まれ。
幼少のころからヘアやメイクアップといった美容に興味を持ち、高校生の時にメイクアップを生涯の仕事と決意する。20 歳のとき、日英米合作映画でメイクアップを担当。その後本場ハリウッドでビューティメイクアップとスペシャルメイクアップを学ぶ。帰国後はTV・雑誌・CFなどさまざまなメディアで活躍。現在は『トニーズコレクション』の代表取締役社長として、オリジナル化粧品の企画・販売、美容サロンの経営、後進の教育・育成、ウェディングヘアメイクなど、美容にかかわる業務を総合的に行なっている。日本メイクアップ連盟代表理事。
株式会社 トニーズコレクション http://www.tony-tanaka.co.jp/