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努力はすればするだけ自分が前に進んでいくもの

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2009年7月号に掲載された、たかの友梨さんの貴重な手記を、一部抜粋してお届けします。

 

 

人と同じことはやらない。自分なりの工夫が必要と悟った娘時代

 

 16歳のとき、群馬の小さな理容店で住み込みで働き始めたのが、私の仕事人生のスタートです。定時制高校に通いながら、学業との両立。技術の習得に明け暮れる日々。学校から戻り、眠いのも忘れ、毎晩、練習に励みました。当時、職人は上下関係も厳しくて、先輩や同僚からは学校に通ってるというだけで、今で言ういじめの対象でした。仕事で辛いことはなかったけどいじめは辛かった。仕事は楽しくて充実していたんです。何より腕に力をつけていく実感がうれしかった。そのとき学んだことが「人間、努力すればするだけ自分が前に進んでいく」ということ。人の二倍も三倍も努力しました。理容師になって4年目、すすめられるままに群馬の理容コンクールに出場し、入賞。以後群馬のコンクールでは、出れば入賞。次の目標は、やはり日本一。東京をめざそう、そう思いました。

 

 上京したのは20歳のときでした。抱えきれないほどの大きな夢を膨らませ、上野行きの列車に乗っていました。上京後、東京での理容師生活が続いていたある日、美容師資格を取得しようと思いました。これからは男性も長髪を楽しむ時代になるだろう、さらに男性社会の理容師の世界で、限界も感じていた頃でした。

ただし、美容師になって普通の美容院を経営しようは思わなかったですね。男性用の美容院を作ればいい。人と同じことをやってもダメ。どこか自分なりの工夫をしなければという思いをそのころから持っていました。

 

思ったことは直ぐに行動に移すのは、私の得意とするところ・・・

 

 美容学校の通信教育科に入学し勉強をはじめました。通信教育期間は2年間。最終過程で1カ月間、スクーリングに参加する必要がある。理髪店を1カ月休まなくてはならない。店主に相談したところ……答えはNOでした。私の決断は早かった。慣れた職場を辞め、美容師免許を取ることを選択。私にとって店を辞めることは大きなチャンスにつながりました。

 

にきびに悩んだことが、人生を変えた

 

 ある日、電車の窓に映る自分の顔に愕然としました。目の下のひどいクマ、そしてにきびだらけの顔……昼は働き、夜も皿洗いのバイト。さらに家に帰ったら美容師免許を取るための勉強。人生二毛作という考えで昼・夜を使い分け、24時間、最大限に使おうと……いくら若くても限界を超えていました。そのツケがこの顔だ。にきびに悩み、何とか治したい。そこで化粧品店に足しげく通い、ひらめいたことは……ビューティアドバイザーになれば化粧品も使えるし、美容知識も身につくはず。そして、ある外資系化粧品会社のビューティアドバイザーに採用されました。理容師から、ビューティアドバイザーに……人生観も変わっていました。技術が一番だった職人から、美意識も磨かれ、周りの人たちも変わっていく。成功哲学も自然と学んでいました。成功者たちはそれぞれ、独自の発想で時代をつかんでいるのです。そのころ読んだ本が、マクドナルドを日本に導入した藤田田氏の『ユダヤの商法』でした。女と口を狙え! というフレーズがあり、女性相手と食べ物の商売は必ずあたるという主旨のことが書いてありました。

 

 人生観まで変えてしまったビューティアドバイザーの仕事でしたが、相変わらずにきびには悩まされていました。あらゆる情報の中で本物の技術を知りたい……そんなある日、新聞で「パリでエステティックサロンが大流行」という記事を目にした。その瞬間これだ! と確信。女性をきれいにする仕事であること。そして、「技術」を行なえること。世界最先端の美容法を、いち早く日本に持ち込むこと。何もかもが、私がめざしていたものと合致していたのです。結果論になりますが、私が成功できた理由の一つは、私自身が根っからの技術者だったこと。そして、いつもプラス思考で物事を捉え直ぐに行動に移していたのです。ふり返ってみれば、私の人生は常にそうでした。

 

後半は、弊社代表の花上哲太郎がナビゲーターを務め、インタビュー仕立てでお送りします。