私の信念は、自分という存在を、愛し、育ててあげること
45歳のときにエステシャンとしての道を歩み始め、2004年にはLPGインターナショナルコンテストで世界110ヶ国の中から世界最優秀グランプリを受賞したフェイシャルの第一人者に。そして現在は、タラサ志摩ホテル&リゾート取締役社長として活躍される今野華都子氏のインタビューを、2009年の本誌から一部抜粋してお届けします。
自分の人生を自分で決める。それが周りの人々の幸せをつくるのです
花上 今野さんがこれまでエステサロン経営や現在のホテル経営を経験されたなかで、いちばん大切になさっていることは何ですか?
今野 エステティシャンでも、ホテルマンでも同じお客様の前に立つ仕事だから、身だしなみを整えたり、さわやかな笑顔はもちろん大事。しかし、それに先立つものとして、まずは人として自分がどういう生き方をしていきたいか? を、はっきりさせることです。そして、目の前のことを一生懸命していくこと。エステティシャンなら自分の目の前の人に「結果を出してあげたい」、「喜んでいただきたい」、ということを突き詰めていくと、「どうしたらシミやシワを取ってあげられるの?」、「どうしたら若くしてあげられるの?」と考えるようになります。その想いは必ず、技術に反映され、どんどん具体的な結果となって表れます。ホテルのサービスも同じです。状況はいつも違います。目の前のお客様にとって何が一番かを良心にそって考え行動できることです。ですから、目の前のことに対して真正面から挑戦し、真剣に取り組んでいくこと。それが、お客様との喜びの共有につながるのですね。
花上 今野さんは、エステティシャンとして、働く女性として、多くの人々にとって生き方の指標となっていることと思います。どんな信念を持って今を生きていらっしゃいますか。
今野 自分という存在を、愛し、育ててあげることです。人は、最長100 年という限られた人生の時間の中で自分を表現していきます。成長させ、自分を幸せにしてあげなければなりません。自分の生き方が自分を幸せにし、周りの人の幸せにつながること。私にとってそれが仕事であり生き方です。仕事は人生の大部分であり、仕事をすることで幸せを感じています。義務だと思ったことは一度もありません。じつは、私は、生き方というのをすでに幼い頃から決めていました。というのも、じつは幼少のころから体が弱く大病を患っていました。これまでに6回の大手術を受けています。幼いながら「いつ死ぬかわからない」とも思っていました。「病気で人生が短いかもしれない、死んでしまうかもしれない。でも、死ぬんだったら、88歳まで生きる人たちよりももっと濃厚に生きたい。もらった時間がどこまでかわからないから、私はもっと真剣に今を生きなければならない。」と、そんな風に思って生きてきたのです。幼いころからのそのような考え方は、今も、大事にしていることです。ですから、私はいつも100%の幸せを感じています。自分の人生を、自分で決めてきた。そして、一瞬一瞬を満足して生きている、という自信があります。
花上 現在、このようにパワフルにお仕事をこなされているのも、そのようなタフなご経験があったからこそなんですね。生き方やメンタル面の強さがつくり上げられたのも、病気と闘われて、“生きること”をしっかりと踏みしめてこられたからかもしれませんね。
今野 そうかもしれません。「人は何のために生きるのか?」その疑問があって、すべての行動が派生していきます。一つひとつの行動に対して、どんな風に時間を使うか? 毎日何をするか? すべて自分で決める。そのような子どもの頃からの価値観が、何が起きても動じない、強靭な精神力を身に付けたのかもしれませんね。
45歳で美容業界入り。ひたすら呼び込みをする日々からスタート
花上 大病を経験され、“生きる時間を大切にする”価値観を身につけられたということですね。成人になられてからは生まれ育った仙台で農家に嫁がれて主婦業をされていたとのことですが、45歳のときに美容の世界に入られたきっかけはなんですか。
今野 私たちの夫婦には二人の子どもがいます。子どもが大きくなるにつれて学費などのお金が必要になってきたのを機に、仕事に就こうと決意しました。しかし、私には履歴書に書ける資格も、誇れる技術もありませんでした。さらに1998 年といえば、今と匹敵する不況の時代。それでも、“何かをやって、お金を稼がなければならない”その想いだけで事務所を一室、借りることにしました。
花上 そこから、どんなお仕事を始められたのでしょうか?
今野 そこで始めたのは、まつ毛パーマのお店です。知り合いから技術を学び、自分のお店を開きました。お店の経営なんてしたことがありませんでしたから、どんな風にお金を稼げばいいのか? どんな風に集客をしていいのか? ノウハウなんてありません。さらに、ほとんど資金がないとこからスタートしたため広告を出すこともできなかったのです。そこで、私は老舗デパートの前に立ってお声がけをしました。まつ毛パーマを知っている人はほとんどいなかったため最初は無視されました。しかし200人目ぐらいで興味を持ってくれる人に会い、あっというまに口コミで広がっていったのです。不況の時代にもかかわらず、次から次へとお客様がいらしてくださいました。その頃の私は、経験やノウハウがないからこそ、常識にとらわれない発想ができたのだと思います。「ない」ということは、創意工夫する勇気を与えてくれるんですね。
花上 なるほど。不況とはいえ、順調にお店をスタートしたのですね。今野さんの真剣な姿勢が、お客様にも伝わったのではないでしょうか。
今野 開業して3ヶ月もすると、売り上げは180 万円ほどに。お客様はみるみるうちに増えましたが、それだけお客様を施術していると、ある問題があることがわかりました。それは、「一人ひとりのお客様の毛質が違うのに、市場で販売されているロッドが3種類しかない」ということ。その不便を見逃してはならないと思い、手づくりで12種類の道具を作りました。すると、あらゆるまつ毛の長さや性質に対応できるようになり、これまで解決できなかったお客様のどんな悩みやリクエストにも、応えることができるようになりました。人は真剣に悩むとちゃんと答えは出るもの。目の前の問題に正面から向き合って、解決するために考えることが大切だと思いました。
花上 一つひとつの問題から逃げようとせず、正面からぶつかっていくのは簡単なことではないと思います。そんな風にして、施術のクオリティもどんどん向上されていかれたのですね。まつ毛パーマのお店をされていた今野さんですが、その後、フェイシャルに転向されましたね?
今野 はい。フェイシャルに携ったのは、お肌が荒れたお客様と出会ったこと。その方のお肌のお悩みをうかがったことがきっかけです。私自身もある程度年を重ねた頃から、女性としてシミやシワを気にするようになっていました。顔のお手入れやお化粧品に関心があり、多少の知識も持っていたので、そのお客様にできる限りのアドバイスをして差し上げたんです。そこから他のお客様にも伝わり、フェイシャルをメニューとして出すようになりました。お客様一人ひとりに肌の悩みがあることに気づき、「肌が荒れる原因はなんだろう?」、「なぜ、ここにシワができるんだろう?」と、皮膚生理学や大脳生理学、リンパなどの勉強をしながら、フェイシャルの道を突き詰めていきました。
花上 ご自分が悩まれていたことをきっかけに、お客様にもアドバイスするようになったんですね。
今野 はい。私は45歳からのデビューだったので経験が浅かったですが、経験の長さで競おうとしても、ないものは仕方がないですね。ですから、ないものを卑下するのではなく、「あるものを武器にしていく」という考え方で、私なりのアドバイスをしていきました。20代の素敵なエステティシャンがいらっしゃったとしても、40歳の悩みは実感としてはわかりませんよね。20代のお嬢さんよりも20年以上の経験があることを武器にして、お客様の悩みにリアルに応えていったのです。
フェイシャル転向からホテルの代表取締役として奔走する現在までをうかがった今野華都子氏のインタビュー後編はこちらから。
今野華都子 Katsuko Konno
三重県鳥羽市にある『タラサ志摩ホテル&リゾート』取締役社長。日本エステティック協会認定エステティシャン。日本エステティック業協会認定講師。2007年4月、まったく経験のないホテル業のトップに就任。当時、経営不振だったホテルで従業員一人ひとりと向き合うことで再建に成功する。著書に「運命を変える言葉」(知致出版)、「顔を洗うこと 心を洗うこと」(サンマーク出版)などがある。